御徒町の歴史

御徒町


御徒町は江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来しています。

 

宝飾品の街である『御徒町』のルーツを辿ると江戸時代にまでさかのぼります。

御徒町付近は、上野寛永寺、浅草寺をはじめとし、数え切れないほどの寺社がありました。

 

さらに、日本橋と浅草という江戸時代の二大商業地の中間にあった下谷(現在の台東区上野地域)から小石川(文京区)にかけて、浅草、吉原、柳橋、黒門町、湯島、根津など、域街、色街が多くあり、そこに納めるための品物を作る様々な職人さんがいました。

 

なかでも皇室御用達の傘を作る職人は有名です。

 

簪(かんざし)や櫛(くし)などの小間物(アクセサリー)を鼈甲(べっこう)、象牙、珊瑚や銀などで作る職人や、仏具の職人がいました。現在でも伝統工芸の職人が大勢います。

 

しかし、明治の中頃になると、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の流れにあって仏具職人は神道用具や小間物の職人に転向しましたし、刀剣の装飾を作っていた錺(かざり)職人も小間物や宝飾品へと対象を変えました。

 

その結果、指輪を製作、加工する業者が増えました。

やがて、型を使用した量産技術が生まれ、御徒町は宝飾品の街として認知度を全国に高めていきました。

戦後の歩み

第二次大戦後は、上野で米軍の兵士が時計やアクセサリーなどを売買をはじめました。

このときの青空マーケットが今のアメ横の母体となります。

 

上野や御徒町はアメ横のバックヤードとして修理と仲買機能を果たすとともに、戦後1964年(昭和39年)困窮した家から売りに出された時計やジュエリーを時計・宝飾業者同士の交換会である「市」も行われるようになりました。

また、贅沢品の輸入は認められていませんでしたので、時計は密輸入されB時計と呼ばれていました。

 

台東区内でも様々な交換市がそれぞれ毎月決まった日に開かれていました。

問屋はそこで仕入れた商品を抱えて地方の時計店に売りに行きましたが、売るというよりも配給するといった感じで、完全な売り手市場でした。

 

そのうち、地方の小売店も問屋が来るのを待っていられなくなり、仕入れるために上野に来るようになりました。

当時、問屋の多くは現在の東上野1丁目を中心に集まってはいたものの、台東区内に飛び飛びにあるため、仕入の効率が悪く、何とかまとまった問屋街にならな いものだろうかという要望が多く寄せられるようになりました。

 

そこで、時計関係の問屋有志12社が協議し、戦災で焼けて空き地が多く上野駅にも近い御徒町駅前に集まろうということになり、1956年(昭和31年)に「仲御徒町問屋連盟」が結成されました。

 

交換市で活躍した人たちを旗師と呼びました。

この旗師たちが中心となって作った組合が全国宝石卸協同組合です。

その鑑別部門として1986年に(株)全国宝石学協会が設立されました。(2010/10/29倒産)

こうして、宝飾品取引の中心地としての地位を確立しました。

 

御徒町駅前から御徒町公園にかけての一帯には戦前から自転車組み立て工場が多くありましたが、戦後のモータリゼーションの進展とともに姿を消していきました。北上野一帯がバイク街になっているのがその名残りです。

 

時計が実用性一辺倒からデザイン重視に変わっていくとともに、メーカーは本体とバンドを一体化したデザインを取り入れるようになり、当然のことながら時計バンドの売り上げは落ちていきました。

時計メーカーの力がついてくるとともに、過当競争で乱売していた時計卸もメーカー主導で合併させられ、最終的にはセイコーはセイコー時計販売の一社になり、シチズン時計の卸も同じ道を辿りました。

 

昭和30年(1955)から始まった高度経済成長は、特に昭和40年以降になるとジュエリーのような贅沢品も爆発的に売れはじめました。

本業が苦しくなった時計バンド卸商や時計卸商は、それまで副業的に取り扱っていたジュエリーに活路を見いだし業種転換を図りました。

消費の増大とそれに対応する供給サイドの増大がうまくかみ合って業者数もどんどん増えていきました。

ジュエリータウンおかちまちの誕生

戦前、戦費を調達するために贅沢品には物品税を課していました。

戦後もジュエリーにかかる第一種物品税は小売段階で課税され、業者間取引には課税されないため、税務署が発行する業者証明書が必要でした。

昭和55年頃、下谷税務署(現在の東京上野税務署)管内では1400枚もの証明書が毎年更新されていたそうです。

 

その頃から卸店舗はショールームへと転身の流れを受け、指輪中心の卸商ばかりでなく、ネックレス、空枠、ダイヤモンド、真珠、裸石などの専門卸商やメーカーが次々と開店しました。

 

その結果、御徒町に来ればどんなお客の要望にも応えられると小売店の間で評判になり、来街する業者が更に増え、業者も競って御徒町に出店するという具合にどんどん業者数が増え、御徒町を経由して出荷されるジュエリーは、最盛期には全国取引額の2/3、上野5丁目(JR御徒町駅東側)地区だけで1000もの業者があると言われていました。

 

街作りと共同セールの開催を目的として、昭和62年(1987)9月、JR御徒町駅の東西、台東区上野5丁目と3丁目のジュエリー業者159社が集まって「ジュエリータウンおかちまち」(略称・JTO)が設立されました。

JTOの設立が契機となり、台東区からもジュエリーが地場産業として認められるようになりました。

 

平成元年(1989)4月に15%の物品税が廃止されると、折からのバブル景気もあり、ジュエリー業界には異業種からの参入が相次ぎました。ジュエリータウンにも卸やメーカーが相次いで店舗を開設し、最盛期は蔵前橋通りに近いところまでがジュエリー店になりました。

小売店も増えてきて、駅前の店舗家賃は銀座を凌ぐとも言われるまでになりました。

 

御徒町の道には宝石の名前がつけられています。

「ガーネット通り」、「ダイヤモンド通り」、「ひすい通り」、「エメラルド通り」、「ルビー通り」、「サファイア通り」など御徒町のジュエリータウンを交差する路地には宝石の名前がつけられています。

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