生きているだけで幸福

幸福


私たちの誰もが、幸福になりたいと願って生きていると思います。

そして、毎日様々な場面や物事に、幸福を探し求めています。

 

「ああ、なんて幸せなんだろう。」

「こんな奇跡のようなことが起きるなんて幸運だ!」

 

そして、この幸福の時間が終わると、また、幸福を探し求めます。

満足しては、再び幸福を探すことを日々繰り返しています。

さらに、一度味わった幸福よりも、次はもっと大きな幸福を探し求めます。

 

その幸福の基準はどこにあるのか?

それは、他人との比較です。自分の経験値との比較です。

比較することで、優劣を判断し、幸福を味わっているのです。

 

優劣は、時に勝ちたいという気持ちが強くなり、結果として競い合いが起こります。
勝った方は、さらに次の幸福を探し求めていきます。

負けた方は、苦しみ、悲しみ、さらに憎しみを味わいます。

 

幸福になるためには?

 

私たちは、見たり、聞いたり、味わったり、嗅いだり、触れたりできるもの、つまり、感覚器官からの情報から判断しています。

しかし、これは感覚的な興奮で起こる幸福でしかないのです。

 

「◯◯で幸せになる」

「◯◯している時に幸せを感じる」

「美味しい物を食べると幸せになる」

「誰かと共感できた時に幸せを感じる」

など

幸福という言葉に憧れのようなイメージをもっています。

 

どんな物事に幸福を見出すか、どんな瞬間に幸福を感じるかは、人それぞれかもしれません。

しかし、いつの間にか、自分が「幸せになる」ために、日々一生懸命生きています。

でも、それは本当の幸福なのでしょうか?

 

ここでひとつ提唱したいと思います。

それは、「生きているだけで幸福」

生きているだけで幸福

至福という言葉をご存知だと思いますが、これは見ることができません。

見ることができない至福は、縁遠い存在のようなイメージがありますが、幸福は、感覚として見ることができるのです。

誰でも簡単に理解できるのは、どっちと言われれば、当然幸福です。

 

「目にすることができる何か素敵なもの、耳にすることができる何か素敵なメロディ、触れることができる何か素敵なもの」

その時々、美しく咲く花を見るように、いずれは枯れてしまいます。

至福は永遠であり、時間や空間に限定されるものではないと言われています。

その理由は、至福は外的な物事に依存するものではないからです。

 

だから、「生きているだけで幸福」なのです。

 

ここで、幸福探しは不幸を招くとして、幸福探しをすることを止めたとします。

・小さな幸福の延長線上に大きな幸福がある。

・楽しい経験、出来事を積み重ねた先に幸福がある。

これまで、絶えず動いてきたことで、失われていた自分と向き合う時間が訪れます。

最初は、上記に示したように幸福を感じるよりも恐怖や不安の方が大きいはずです。

しかし、徐々に心の動揺が収まり、時間が安定してくると、自分の「知性」と向き合うことができます。

 

人生は楽しむためにあると信じて、次から次へと楽しい経験を追い求めて行動する。

それなりの楽しみを得ては満足し、充実した一日だったと、また明日幸福探しを頑張ろうと眠りにつく。

 

何かを通じて幸福になるという発想は、何も疑問に持たないほど、当たり前と思い込まされていませんか?

「生きているだけで幸福」

ここまで文章にするために、結構時間をかけて綴りました。
事細かにあれやこれや例を上げると、キリがないですし、余計なものは伝わりにくくなります。

ただ、少なくても伝わらないと、打っては消して、何度も書き直したりました。

 

今回のブログで、もっと詳しく話を聞いてみたいと思った方は、会いにきてください。
この手の内容のメッセージは、やり取りに負担が大きいので笑

あなたの、生き方や価値観がいい方向に変化するきっかけになれば、とても嬉しいです。