楽しみと苦しみについて

人間は人生を楽しむために生まれてくるのであって、決して苦しむために生まれてくるのではない。

私たちの知っている「楽しむ」とは、物事の経験が楽しかったことを意味します。

ですから、物事の経験が楽しくなかったとしたら、「面白くなかった」と言います。

この感情は、対象に依存している状態から生まれます。

ですから、私たちは常に楽しい物事を探して、追い求めています。

 

世の中には、さまざまな娯楽の手段があります。

人々は常に喜び、楽しさ、幸福感を得るために、それらが得られるだろう人や物事を探し求めていきます。

人生は楽しまなければ損だと、つらい事、苦しい事を避け、楽しい事、面白い事だけに関わろうとする人もいるかもしれません。

 

そんな理想を求めて、現実はどうなのか?

仮に、辛く苦しい事から逃避し、楽しい物事だけを追い求めたとしても、それから快楽が得られなければ、苦痛を感じます。

たとえ、快楽の最中であっても、快楽を失うことの不安や恐怖があれば、その快楽には苦痛が含まれています。

さらに、同じ経験を繰り返し続ければ、その経験から得られる快楽は徐々に薄れていきます。

 

だから、人生には楽しいこともあれば、苦しいこともあるのです。

人生には、本当はしたくない事でもしなければならないという状況は当たり前のようにあります。

人生には、我慢を強いられる場合も多くあります。

でも、誰でも辛い、苦しい思いは嫌ですから、何とかして緩和しようとします。

一度きりの人生と自分に言い聞かせたり、何をするときでも楽しむことが大切だと考え、楽しむための工夫や努力、テクニックを手に入れようとします。

 

では、人間は人生を楽しむために生まれてくるのであって、決して苦しむために生まれてくるのではない。は理想なのか?

一喜一憂


一喜一憂とは、ある物事の情況が変化するたびに、それにつれて喜んだり心配したりすること、を意味します。

 

私たちは人生において、日々、苦しい経験を減らしたい、楽しい経験を増やしたい、と望んでいます。

苦しみを嫌悪し、苦しみを減らし、喜びを増やすことが幸福である。

幸福が拡大すれば、苦しみから解放されると信じています。

しかし、どんな努力や工夫をしても、苦しみから解放されることはありません。

 

だから、苦しい事ばかりの連続でなければ、私たちはそれなりの人生、それなりの幸福で満足することを選びます。

楽しい経験を増やし、苦しい経験を減らす努力をすることで、人生をできるだけ楽しもうとしています。

 

しかし、人生には多種多様な楽しみ方があり、世界中に多種多様な楽しみがあるかもしれませんが、私たちはそんな楽しみで満足すべきではないのです。

四苦八苦


四苦八苦は仏教用語で、生、老、病、死の四苦と、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、 五蘊を加えた八苦の意味があります。

人生は、始まりから終わりまで、苦しみの連続のようにさえ見えてしまいます。

確かに、私たちの人生は、大なり小なり悩みや苦しみは日常茶飯事です。

 

「さまざまな観点で物事を捉えられることの大切さ」

これは、物事を体験する人の視点の変化(相違)することで、苦しみにも、喜びにもできるという教えです。

苦しみに意識を当てるよりも、喜びに意識を当てて、希望を与えてくれるものが好ましいと考えます。

 

日々、私たちは進化・成長することによって、幸福を手に入れようとします。

時に、間違った方向へ進んでいたり、あるいは、不必要な行動をしていることもあります。

そこからの悩みや苦しみには、とりあえずその行動を一旦中断し、休息をとることも大切です。

 

『生き方の極意』

苦しみは、進化・成長の道筋から逸脱した間違った行為の結果であると見なされています。

つまり、苦しみの原因は、間違いを犯すことです。

もし、間違いを犯さなければ、苦しみからは一生解放され、幸福になれるという考えです。

 

しかし、物事から快楽を得ることができたとしても、永遠の満足は得られるのでしょうか?

また、快楽のある物事の経験が永遠に続く人生なんてあるのでしょうか?

苦しみの原因


「善行の結果として喜びがあり、悪行の結果として苦しみがある」

これは、悪行がなければ、悪行の結果としての苦しみを経験することはない。

つまり、善行に起因する喜びのみを経験することで、悪行に起因する苦しみから解放されるという教えです。

 

さて、これまで“快楽を求めること”が苦しみの原因であり、“間違った行為”が苦しみの原因であると綴ってきました。

快楽を求めるから、間違いを犯すから、苦しみがある。

快楽を求めなければ、間違いを犯さなければ、苦しみから解放される。

 

人間は人生を楽しむために生まれてくるのであって、決して苦しむために生まれてくるのではない。

やはり、これは理想なのでしょうか?

 

人は創造する生き物です。人には無限の可能性があります。

人生を楽しむことは、自然なことであり、単純なことです。

本来、どんな訓練も必要とせず、お金や時間をかける必要もなく、いかなる努力も必要ないはずなのです。

しかし、世の中はそれほど単純ではありません。

 

ここまでお読み頂きまして、ありがとうございます。

ここからが、このブログの本題となります。

楽しみに満ちた人生


何かを経験することによって、得られる喜びや楽しみは、いかなることであっても成功しない、と言われています。

その理由は、対象に束縛されることが、あらゆる苦しみの原因だからです。

つまり、主体が対象である限り、手段に関係なく、苦しみを取り除くことはできないのです。

 

「楽しむ」とは、対象から得られる快楽のことを言っているのではありません。

自己における悦びを楽しむということなのです。

結局、私たちがこれまで何かを経験することで楽しもうとするのは、自己以外の物事に快楽を求め、満足したいからなのです。また、その経験を誰かに認めて欲しいと考えるからなのです。

 

しかし、本当の人生を楽しむとは、自己のうちにある永遠の幸福を楽しむことなのです。

これは、主体を対象から自己に向けるだけです。

これまでのように、何か経験することによって、楽しみを得るのではなく、最初から楽しみがあり、満足できる状態です。

 

自分の心が幸福状態にあれば、いかなる対象であったとしても、楽しむことを試みることでしょう。

楽しみに満ちた人生を考えるなら、この自己の内にある心の深い、さらに深い根本の部分に、主体を置かなければ意味がないのです。

人生を楽しむことは、自然なことであり、単純なことの意味とはこういうことです。

人間は人生を楽しむために生まれてくるのであって、決して苦しむために生まれてくるのではない。

 

最後までお読み頂き、ありがとうございました。