ヨーロッパでは、古代ギリシャ以来、至福(makarios)と幸福(eudaimonia)が区別され、キリスト教では、不幸のまじりけのない永遠の宗教的な純粋幸福である至福(Seligkeit,blessedness)と、有限で偶然的な幸運としての幸福(Glueckseligkeit,happiness)とは区別されています。
マックス・シェーラーは、至福感は喜びや楽しさのような個々の「なにかについて」ではなく、これを超えて、それらを統括したところに成立する「快適さ」を表すと言っています。
カントは、幸福とは生の全体的な現存在に、不断に伴う、その生の快適さについての理性存在者の意識であると言っています。
ヘーゲルは、幸福を反省する思考によってもたらされた普遍的な満足の表象と規定している。
このことからも、幸福と至福は意味合いが異なります。
では、幸福を簡単にいうと感情的なものを指します。
つまり他人から与えられたもの。
その逆に、自分の内なるところで得られるものを至福と言います。
● 感動と喜びを増やす = 至福意識を指輪にする
理念である感動と喜びを増やすは、ここでいえば幸福感に含まれます。
それの土台にあるもの。
要は全体を包むものが至福感です。
ここで伝えたいことは、瞬間の幸福感は時間が経つと薄れるということです。
「結婚するから結婚指輪が必要」という価値観は、自分たちに必要な結婚リストの中で、まだ揃っていないから購入しようというレベルでの考え方。
当然、本人たちにとっては、そうは考えていないと思っていないし、自分たちは幸せになるために結婚指輪を身につけると思っているはずです。
ただ、時間という制約がある中で、理想と現実に挟まれて結果的に選ばされたカップルも本当に多いこともわかりました。
その結果は、結婚生活の時間と共に結婚指輪の存在そのものの意味が薄れるのです。
至福にあるときは、心が安らぎに満ちた状態にあります。物事に対する視野は広く。
自分の身の回りに起こることに対しても対応することができます。
怒るということも少なくなります。なにをするのにも、幸せ感を感じています。
● 至福意識をカタチに残す
何か孤独感を感じた時、何か不安に感じた時、何かの時
自分の身につけている手作り指輪を見て、やっぱり今も幸せだなぁ。
と癒されたり、自信にもなります。
婚約を決めた。
結婚を決めた。
当然その先のことなどわかりません。
だからこそ、言い切れます。
手作りをするという行為自体、二人の想い無くして成立しません。
もちろん、手取り足取りサポートしたりしたら別で、ただそれでは、フルオーダーとあまり変わらないのです。
手作りである以上、自分たちが主役です。
日常の結婚生活で、何気ないときも至福感を感じられる。
そんな数少ないアイテムが結婚指輪なのです。
だから、手作り指輪では、至福から始まり至福で終わることが、とても大切な事だと声を大にしていいたいのです!!
